コラム:僕らが「ガンダム」を語り始めた理由 ― SNSの“謎解き”の先に見た、エヴァとカラー社の「凄み」とは?

正直に告白すると、僕、2000年以降産まれのライターにとって「ガンダム」は、お父さんの本棚に並ぶプラモデルの箱、そのくらい遠い存在だった。ファーストガンダムがどうとか、アムロとシャアがどうとか、熱っぽく語られても、いまいちピンとこない。僕らにとってのアニメ原体験は、物心ついた頃に再放送で見た『新世紀エヴァンゲリオン』であり、その衝撃をリアルタイムで受け止めた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズだったからだ。
そんな僕が、最近SNSのタイムラインで奇妙な熱気に触れた。きっかけは「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ガンダムジークアクス)」という、タイトルだった。結局、どうやらそれは、近年に公開されたあるガンダム映画(『Gのレコンギスタ』や『閃光のハサウェイ』等)が巻き起こした、巨大な「謎解き」ムーブメントの俗称に思えずにはいられないのである。
でも、俗称がどうだのなどは、どうでもよかった。重要なのは、僕の周りの同世代が、あの“お父さん世代のアニメ”であるはずのガンダムについて、SNSを通じて熱心に語り合っていたという事実、これだけだ。彼らは、難解なセリフの意味を考察し、断片的に示される時系列をパズルのように組み合わせ、登場人物の真意を巡って議論を戦わせていた。ハッシュタグで繋がった無数の投稿、YouTubeに次々とアップされる解説動画。その光景は、僕らが『エヴァ』で経験した熱狂と、驚くほどよく似ていた。
なぜ今、ガンダムが「謎解き」として消費され、これほどの盛り上がりを見せているのか。そして、この現象の根源をたどっていくと、なぜ僕らは『エヴァンゲリオン』を創り上げた株式会社カラーの「凄み」に突き当たってしまうのか。その意義について、少し考えてみたい。
SNS時代の「正解」のない物語
今回のガンダムが引き起こした熱狂の中心にあったのは、徹底した「情報のコントロール」と、それによって生まれた「考察の余地」だ。
物語は、決して手取り足取りすべてを説明してはくれない。むしろ、意図的に散りばめられた専門用語、キャラクターたちの行動原理、そして世界の全体像といった重要な情報が、あえて隠されているようにすら感じられる。観客は、一度観ただけでは全貌を掴むことができず、自然と「あのセリフの意味は?」「あのキャラクターはなぜあんな行動を?」という疑問を抱えて劇場を後にすることになる。
そして、その“モヤモヤ”こそが、SNS時代の起爆剤となった。誰かが「ここが分からなかった」と呟けば、別の誰かが「自分はこう解釈した」とリプライを返す。公式から小出しにされる設定資料やスタッフのインタビュー記事は、その考察に新たな燃料を投下し、議論はさらに白熱化していく。
これは、単に作品が「難解」だという話ではない。ファンが自発的に情報を補完し、議論し、物語の世界を広げていくことを前提とした、極めて現代的なコミュニケーションデザインだ。作品単体で完結するのではなく、SNSという巨大な“外部脳”を巻き込むことで、初めてその全体像が浮かび上がる。この「不完全さ」こそが、ファンコミュニティを活性化させ、作品の熱量を維持し続けるための、巧みなSNS戦略なのだ。
すべての道は「エヴァ」に通ず? カラー社が発明したフォーマット
しかし、この手法に既視感を覚えるのは僕だけではないだろう。そう、これこそが、『新世紀エヴァンゲリオン』が発明し、株式会社カラーが『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズで完成させた「考察させる力」そのものだ。
1995年、旧世紀版エヴァは、膨大な謎と思わせぶりなキーワード(「人類補完計画」「S2機関」「死海文書」…)を散りばめながら、最終的に明確な答えを提示しないまま衝撃的な結末を迎えた。当時、インターネットはまだ黎明期だったが、雑誌やパソコン通信を舞台に、ファンによる巨大な考察ムーブメントが生まれた。誰もが「エヴァの謎」を解き明かそうと、必死に情報をかき集め、独自の理論を構築したのだ。
そして2007年から始まった『新劇場版』で、庵野秀明総監督率いる株式会社カラーは、この手法をさらに洗練させる。SNSが普及した時代に合わせ、予告編で意図的に本編にない映像を差し込んだり、公式サイトで謎のカウントダウンを始めたりと、リアルタイムでファンを揺さぶり続けた。
カラーの凄みは、単に魅力的なアニメーションを創ることだけではない。彼らが本当に優れているのは、「物語」そのものだけでなく、「物語を語りたくなる体験」をデザインする力だ。意図的に創られた「余白」や「謎」をフックに、ファンを考察という名の冒険へと誘う。ファンは、消費者であると同時に、作品世界を解き明かす探偵となり、その考察活動そのものが新たなコンテンツとなって、さらに新しいファンを呼び込む。この自律的で熱狂的なエコシステムを構築する設計思想こそ、カラーが25年以上かけて磨き上げてきた、最大の武器なのである。
ガンダムが「エヴァの文法」を纏った意義
では、なぜ「ガンダム」という、日本のアニメ史に燦然と輝く巨大なIPが、この「エヴァ的(カラー的)な文法」を必要としたのだろうか。
ここに、今回の盛り上がりの最も重要な意義が隠されている。
これまでのガンダムの楽しみ方は、いわば「縦軸」の深掘りが中心だったように思う。宇宙世紀という長大な歴史、富野由悠季監督の作家性や思想、モビルスーツの系譜…。それは、知識を積み重ねることで、より深く味わえるようになる、伝統的で重厚な楽しみ方だ。お父さん世代が熱中するのもよくわかる。
一方で、僕ら10代が今回体験したガンダムの楽しみ方は、「横軸」の広がりだ。リアルタイムでSNSに溢れる無数の断片的な情報を集め、瞬発的に解釈し、他者と繋がりながら考察を共有していく。歴史や背景を知らなくても、目の前にある「謎」に挑むスリルと、それを共有する連帯感だけで、十分に楽しむことができる。
つまり、ガンダムは、このカラー的な「謎解き」のフォーマットを纏うことで、僕らのような“ガンダム初心者”の10代が、何の予備知識もなく飛び込める「入口」を用意したのだ。
歴史の重みに気圧されることなく、純粋なミステリーとして作品に触れ、SNSでの考察合戦に参加する。その過程で「もっと深く知りたい」と思えば、そこにはお父さん世代が積み上げてきた「縦軸」の膨大な知識の海が広がっている。親子ほど年の離れた世代が、同じ一本の作品を、まったく違うアプローチで楽しみ、語り合うことができる。この奇跡的な状況を生み出したことこそ、今回のムーブメントの最大の功績ではないだろうか。
古典だと思っていたガンダムが、突如として僕らの目の前に、最も新しいエンターテインメントの形を提示してくれた。その背後には、間違いなく『エヴァンゲリオン』とカラーが切り拓いてきた「ファンを巻き込む力」の存在がある。
「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ガンダムジークアクス)」――。僕にとっては、古びたと思っていた古典が、新しい世代と接続するために見せた“本気”の狼煙のように思えてならない。
なんだか、無性にファーストのガンダムだけでなく、Z、さらに逆襲のシャアが観たくなってきた。そんな気持ちにさせられているのは、私だけではないはずだ。
残り3回楽しみにしてマチュ。