ミラノ・コルティナ五輪閉幕から2日――祭りの後に残ったものは何か

ミラノ・コルティナ五輪閉幕後、日本のスポーツ報道は何を伝え、何を伝えなかったのか。本記事では、持続可能な五輪モデル、日本選手の評価、地上波報道の課題、電波の公共性という視点から、大会後に残る本質的論点を整理し、オールドメディアの在り方を検証します。
2026年2月、イタリアで開催されたミラノ・コルティナダンペッツォオリンピックは、2日前に静かに幕を閉じた。
アルプスの雪景色と都市型開催の融合。既存施設活用による“持続可能な五輪”モデル。欧州型スポーツビジネスの洗練。大会そのものは、多くの示唆を残した。
日本選手団も存在感を示した。フィギュアスケートでは“りくりゅう”こと三浦璃来・木原龍一組が世界最高峰のペア演技を披露し、坂本花織は女子のエースとして堂々たる戦いを見せた。
しかし、大会が終わった今こそ問うべきことがある。
私たちは、オールドメディアに何を見せられ、何を見せられなかったのか。
1.熱狂の構図は変わったのか
大会期間中、日本の地上波は連日特番体制を敷いた。
・メダル期待の煽り
・感動エピソードの反復
・スタジオでの芸能人コメント
・「歴史的快挙」という常套句
りくりゅうの絆、坂本花織の笑顔、家族の支え――。
それらは確かに美しい。しかし同時に、どこか既視感もあった。
競技技術の解説は断片的で、ペア競技特有のスロージャンプの難易度や、採点基準の細部にまで踏み込む放送は限られていた。坂本のステップシークエンスがなぜ高得点なのか、GOE(出来栄え点)がどう積み上がるのか。そこまで理解した視聴者は多くないだろう。
結果として、熱狂はあったが、理解はどこまで深まったのかという疑問が残る。
2.アスリートの「一般人化」
大会期間中、アスリートは競技者である前に“親しみやすい存在”として消費された。
・天然トークの切り抜き
・好きな食べ物
・オフの素顔
・バラエティ番組との連動
三浦璃来と木原龍一は、日本ペア史を塗り替えた象徴的存在であるにもかかわらず、技術的挑戦よりも“仲良しエピソード”が強調された。坂本花織も、力強いジャンプと音楽表現の進化より“明るい人柄”が前面に出た。
アスリートの人間性を伝えることは重要だ。しかし、それが競技理解を上回るとき、スポーツは物語商品へと変質する。
3.大会後の“静寂”
五輪は終わった。
テレビの編成はすでに通常モードへ戻りつつある。
ここで露呈するのが、「祭り型報道」の限界だ。
大会中は連日トップニュース。
しかし終われば急速に露出は減る。
ペア競技の国内育成課題はどうなるのか。
坂本花織世代の次を担う選手育成はどう進むのか。
欧州型分散開催モデルは日本の大会運営に応用可能なのか。
こうした議論はほとんど深掘りされない。
熱狂の後に残るのは、静かな空白だ。
4.持続可能性という本質テーマ
ミラノ・コルティナ大会は「既存施設活用」「環境配慮型五輪」を掲げた。過去の巨額赤字大会への反省が背景にある。
しかし日本の報道では、その経済的意味や国際的評価を継続的に検証する番組は限られていた。
五輪は単なるスポーツイベントではない。
都市政策、財政、環境戦略、国際政治が交錯する巨大プロジェクトだ。
それを「メダル何個」で終わらせてよいのか。
5.視聴者の“飽き”は進行している
大会期間中は盛り上がる。だがSNS上では、
「また同じ演出」
「感動の押し売り」
「スタジオがうるさい」
といった声も散見された。
海外中継や専門配信では、より静かで戦術的な解説が提供されている。比較可能な環境において、地上波の“過剰演出”は際立つ。
飽きは、無関心へと変わる。
五輪の熱狂が、次の大会まで持続しない理由はここにある。
6.電波の公共性という論点
地上波は公共の電波を使用している。
それは国民共有の財産だ。
しかし現行制度では、既存放送局が長期的に周波数を利用し続けている。利用料は国際水準と比較して高いとは言えない。
もし放送分野にも本格的な電波オークションを導入すればどうなるか。
・利用価値の可視化
・競争環境の創出
・国庫収入の増加
新規参入が進めば、データ分析特化型スポーツ専門局や、公共政策検証に強い放送局が現れる可能性もある。
もちろんリスクはある。資本の寡占や地域放送の弱体化。しかし、現状の閉鎖的構造が最適だという保証もない。
7.オールドメディアは変われるか
テレビには依然として強みがある。
・同時性
・高品質映像
・速報力
・全国一斉伝達能力
問題は能力ではなく姿勢だ。
りくりゅうの技術的挑戦を図解し、坂本花織やスノーボードの演技構成点の意味を解説する。分散開催の財政構造を検証する。国際競技連盟のルール改定を分析する。
そこまで踏み込んだとき、テレビは再び信頼を取り戻せる。
8.祭りの後に残るべきもの
五輪は終わった。
だがスポーツは続く。
大会の総括とは、メダル数の集計ではない。
文化として何を積み上げたかを問うことだ。
ミラノ・コルティナ五輪は、日本のスポーツ報道にとっても試金石だった。
もし今回も“祭り”で終わるなら、次の大会ではさらに関心は薄れるだろう。
結語
日本の選手団ならびに、五輪に参加した世界各国の選手、彼らの挑戦は本物だった。
だがその価値をどう伝えたかは、別の問題である。
五輪は2日前に終わった。
しかし問われるべきは、これからだ。
電波は公共財である。
その使い方は、文化の成熟度を映す鏡だ。
熱狂の余韻が消えかけた今こそ、
“祭り”から“公共性”へ転換できるかどうか。
それはアスリートではなく、
それを伝える側の覚悟にかかっている。



