ゲーム、アニメ、コミック、映画… あらゆるメディアに向けてワンストップでコンテンツを制作! あまた株式会社代表・高橋氏が目指す未来と、そこに至るまでの不思議な経緯とは?-第1回
『どこでもいっしょ』のディレクターから、オンラインゲームの運営、ガラケーのゲーム開発などを経て自ら起業!スマホからコンシューマー、VRゲームなどオールジャンルのゲームを開発するあまた株式会社が、映像、コミックなど、ゲーム以外のコンテンツを制作する理由や、その先にある未来の姿について、高橋社長に熱く語っていただきました。今回は7回の連載に分けてお送りします。(聞き手:コンフィデンス取締役 竹下和広)
第1回 - 高橋社長が「たゆたう」を創業するまでの長くて緩い、不思議な道のり
竹下和広(以下 竹下):今日は高橋社長のご経歴から、あまたというのはどういう会社かなど、いろいろと伺っていきたいと思っています。まずはご経歴から。
高橋宏典(以下、高橋):1971年2月生まれ。この'70年組はゲーム業界に多いのですが、自分は早生まれなんで71年ですけど。新卒でゲーム会社に入ったのがテクモです。
竹下:テクモの内定が1992年で、入社したのが1993年ですね。何年くらいいらしたのですか?
高橋:3年間です。創業者の柿原彬人氏が社長の頃です。
竹下:あの頃のテクモさんはどんな感じだったのですか?
高橋:入社した前年に店頭公開市場、今でいうマザーズみたいなベンチャー市場に上場していました。
竹下:ゲーム会社としては早かったんじゃないですか。
高橋:ナムコさんとかセガさんは、もう上場していました。入社した時がスーパーファミコンの末期で、翌年がプレイステーションの発売の年でした。
歴史のあるゲームメーカーは、出自がパソコンゲーム出身のメーカーと、アーケードゲーム出身の会社があって、テクモはアーケード出身の会社で、世代的にもアーケードゲーム全盛期を体験してきている世代なので、同期入社した人たちの中にも、家庭用とアーケードどっちをやりたい? と聞かれて、「アーケードをやりたいです」と答える人がけっこういました。
竹下:なるほど。
高橋:テクモ自体はアーケードゲームもやっていたのですが、ファミコンの『キャプテン翼』とか、コンシューマーでもヒット作を出していました。スーパーファミコン末期で、プレイステーションが始まる直前ということもあって、今思えばビジネスとしてはプラットフォームの切替わるタイミングでした。そういう時期に入社しました。
竹下:柿原社長の印象はどうでしたか?
高橋:社員数が開発部門だけでも200人はいたので、日常的に接する機会はなかったですね。たまに開発チームが呼ばれて会うくらいで。開発状況を把握するためだと思うのですが…。
竹下:印象深かったことなどありますか?
高橋:社長の席の後ろに日本刀の真剣が置いてあったことです。
竹下:え?
高橋:居合術をされていたと記憶しています。昔のデスクってスチール製のゴツイやつで、よく透明のビニールが敷いてありましたよね。先輩のデスクのビニールの下に、当時の柿原社長が真剣を構えた写真が挟んでありました。「何ですか、これは?」と聞くと、ファミコンの『忍者龍剣伝III』のパッケージデザインが決まらないという時に、社長が「カメラを持って来て、俺を撮れ」と、そして「俺をモデルにパッケージを作れ」と。
その時の記念の写真をコピーして挟んでいるのだと。そういう面白い先輩方から社長の武勇伝を聞いたりしました。
竹下:なるほど。真剣を置いているくらいなんだから『忍者龍剣伝』が後の『忍者外伝』に繋がっていくのでしょうか?
高橋:僕は会社を辞めた後なので直接関係あるのかどうかはわかりません。
僕が入社した頃は上場した影響か普通の会社っぽくなろうとしていた時期で、タイムカードがあって、毎朝、定時に押して、開発もスーツだと言われ、最初の2年間くらいはスーツで行ってました。
竹下:ネクタイも必須ですか?
高橋:ネクタイもしていましたね。でも、当時のゲーム業界なので泊まり込みもあって、泊まり込んでいるやつはスーツを着なくていい、みたいな暗黙のルールもあって。なので、ジャージでいるやつらがいると、今あのチームは泊まり込みなんだな、と。(笑)
竹下:テクモが急成長した時にいたというわけですね。
高橋:そうですね、テクモ自体が歴史のあるゲームメーカーだったので、アーケードゲームから始まって、ゲームセンターの部門もあって、開発部門もアーケードとコンシューマーの両方があって、さらに販売部という、基板を売ったり買ったりとか、プライズの景品を作って売ったり買ったりするような、ゲームセンター向けの商社、B to Bのビジネスをする部門もありました。
また、アメリカ法人、海外の支社もありました。ゲームビジネス的には、アーケード出自の会社としてはゲームセンターの部門があって、開発部門、販売部門があって、三本柱でしっかりと稼げる体制ができていました。
当時、柿原社長が朝礼で直接社員に話をすることもあって、新入社員の頃は「眠いなあ、話が長いなあ」とか思いながらも聞いていましたけど、今になって考えると、経営に関することを凄く話していたんだなと思います。今になって、ようやくわかりました。
竹下:どんな内容だったか、覚えている一節はありますか?
高橋:その頃におっしゃっていたのは、営業部門、ゲームセンターの運営部門のことですが、その営業部の収益でウチの会社の販管費をすべて賄うんだと。そこにもしも開発部門がヒットを出せば、会社としては非常に高収益になるよね、とおっしゃっていました。その時は意味も分からないままに聞いていましたが、今になって考えると、しっかりした経営の考え方を社員に伝えていたんだなと、最近自分も会社経営をする様になってやっと分かるようになりました。
竹下:私もSNKさんで業務用ゲームからのスタートだったので、先ず利益率の高い業務用ゲームで回収して、その後、家庭用ゲームにコンバートしてという流れでビジネスしていました。
高橋:超大企業という規模ではなかったので、朝礼で直接お話を伺ったり、時々開発チームで呼ばれて、今どういうのを作っているのかとか、作っているゲームを見て、いろいろ助言をいただいたりという場を設けられていましたね。
竹下:テクモさんにいる時に手掛けた代表作をあげるとすれば何になりますか?
高橋:当時、私が配属された開発部門は、業務用とか家庭用とかはっきり分かれていなかったんです。所属チームがアーケードをやるならアーケードだし、同じ人が家庭用にいったりと、あまり縦割りでバシッと決められていなかったんです。チーム配属でどちらになるか決まるという感じだったんです。
竹下:その時はプログラマーだったんですか?
高橋:いえ、プランナーです。当時はテクモって変わったことをやっていて、今でいうアーティスト、デザイナー職とサウンドの人以外は、未経験の人を採用した後に社内で3ヵ月くらい、社内専門学校ではないですけど、プログラム研修というのをやって、それが終わったら成績順、毎週テストがあったんですが、成績のいい方からプログラマーで、成績の悪いやつはプランナーになる。僕はプログラマー研修の成績は悪くなかったんですが、当時の講師役の1年先輩から「高橋はプログラマーじゃないだろ」と言われ、プランナーに配属されました。
竹下:勝手にプログラマーのイメージがあったんですよ。(苦笑)
高橋:入社するまで本格的なプログラム経験はありませんでしたが、コンピューター自体は大学の頃から趣味で使っていたので、プログラム研修は、昔からいじっていた延長でしたね。プログラム研修自体は、当時社内で余っていたファミコンの開発機材を使ってゲームを作ったりしました。
竹下:そういうのは元々お好きだったんですね?
高橋:そうですね。
竹下:では、テクモさんでは、プランナーとして配属後、どんなゲームを作られていたのですか?
高橋:アーケードのチームに配属されました。当時ってアーケードの販売部門があったので、自社製だけではなく、他社の基板も仕入れてくる。当時は他社のゲーム基板もテクモが仕入れて販売しました。
販売部門は日本中のゲームセンターがお客様なので、そこで何枚くらい売れそうかを読んで、生産するんですが、読みが外れると在庫基板ができるので、そういうのが、僕がいる、新人がいるチームに回ってくるんです。
その頃は半導体が高かったので、基板のROMを抜いて、差し換えて、新しいゲームに作り変えるんです。当時私がやったのは『脳力向上委員会』、脳トレの走りみたいな基板のゲームとか。あとは、後でコンシューマーに移植される『でろーんでろでろ』という落ち物アクションパズルゲームとか。どっちも余った基板をROM差し換えて…。
竹下:ROMってフラッシュですか?
高橋:その頃はフラッシュもないので、EPROMですね。開発中もプログラムはEPROMで、グラフィックはできたらマスクROMを発注して、と。3年くらい基板のゲームの企画をするプランナーとして一番の下働きからやって、最後の『でろーんでろでろ』ではメインプランナーをやって、ある日、辞めようと思って、3年で辞めました。
あまた株式会社
代表取締役社長 高橋宏典
大学を卒業後、テクモに入社。その後ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)で『どこでもいっしょ』のディレクションを担当し、最年少プロデューサー(当時)に。その後フロム・ネットワークス、韓国でオンラインゲームのスタートアップ企業、キューエンタテイメント等を経たのち、株式会社たゆたうを起業。設立10年の節目に社名をあまた株式会社に変更、現在も代表取締役社長を務める。