ゲーム、アニメ、コミック、映画… あらゆるメディアに向けてワンストップでコンテンツを制作! あまた株式会社代表・高橋氏が目指す未来と、そこに至るまでの不思議な経緯とは?-第3回
7回の連載に分けてお送りしている対談の第3回目。『どこでもいっしょ』のディレクターから、オンラインゲームの運営、ガラケーのゲーム開発などを経て自ら起業!スマホからコンシューマー、VRゲームなどオールジャンルのゲームを開発するあまた株式会社が、映像、コミックなど、ゲーム以外のコンテンツを制作する理由や、その先にある未来の姿について、高橋社長に熱く語っていただきました。(聞き手:コンフィデンス取締役 竹下和広)
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第3回 - ファミ通に掲載されたポケステの記事を見て『どこいつ』の原案が生まれた!?
高橋宏典(以下、高橋):僕は当時、下っ端の平社員で、会社の重要機密など一切教えてもらえなかったんですが、ファミ通の誌面でポケットステーションの記事を見て、ウチの会社はこんなの作ってたのか、とはじめて知りまして。(笑) その時は、超高性能PDAとして紹介されていましたが。(笑)
その記事を見て、ウチの会社、たまごっちみたいなハードを作るみたいじゃん。いままでプレイステーション用の企画を考えていたけど、上手くまとまらないんだから目先を変えて、ポケットステーション用のものをアイデア出しすればいいんじゃないか、と。
その場で、酒を飲んでいるのがちょうどいいブレストになって、たまごっちは可愛いんだけど、ピーピーピーピー音が鳴ってお世話が大変なんだよね…とかのバカ話から始まり、「お世話をしなくていいたまごっち」から発展して「友達みたいにバカ話ができるといいよね」というアイデアがベースになり、後の「どこでもいっしょ」になる原型ができた。一回これでまとめてみるかと言ったのが上手くいき、その後も紆余曲折ありましたが、世に出たのが「どこでもいっしょ」です。
竹下和広(以下 竹下):初めて聞きました!その時は、プロデューサーですか?
高橋:社内ではディレクターという名前でしたけど、職務内容的にはプロデューサーですね。クリエイティブの部分にも片足を突っ込んでいました。
竹下:リリースした時もいらっしゃったのですね?
高橋:その後、プレイステーション1からプレイステーション2の中盤くらいまではずっと、どこでもいっしょシリーズの全部の統括プロデューサー、ディレクターで、プロモーションとかマーチャンダイジングもそれぞれの担当者がいるんですけど、二人三脚で。
そのころ、僕が在籍していたプレイステーションの1から2の初期くらいは、SCE的にはある意味イケイケの時代で、いろいろな経験をさせてもらいました。
竹下:で、何年くらいいたのですか?
高橋:6年弱くらいですね。自分の会社以外だと一番長い期間です。
竹下:それからたゆたうを作ろうと?
高橋:いえ、作らず。また凄い激務になって、会社を辞めようと。何で辞めるのと、まわりからは言われたのですが。
竹下:またですか…良いお給料をもらっていたのでは?
高橋:そうですね。「どこでもいっしょ」をヒットさせたこともあり、当時は社内でプロデューサーという課長職にしていただいて、SCEの制作部では最年少の課長にしていただいて、年収もグッと上がったのですが、すごいダメな人なので、給料が上がっても全然仕事が減らないし、めっちゃ忙しいじゃんと…。
竹下:プライベートがなかった感じですか?
高橋:辞めた時は、6ラインくらい担当していました。外部の会社で2~3ラインやって、社内でも2~3ラインあって。社外で打ち合わせをして、プロモーションとか、キャラクターマーチャンダイジングとかの部分もやっていたので、日中はそれで予定が埋まる。で、夕方に自分のデスクに戻ってくると、社内のチームに捕まえられて打ち合わせして、夜の9時、10時くらいからようやくデスクワークができる。10時くらいに終わったら、今日は早いじゃんと。
竹下:それは大変ですね…。
高橋:つい、お酒を飲みにいったとしても、翌朝は10時とか11時には会社にいなくてはいけない。遅いと2時、3時くらいまで会社にいる。今思えば、自分でコントロールすればいいじゃんって話なんですが、そういう加減もわからなかった。
竹下:当時にすれば、ごく当たり前と言うか…。で、辛くなったんですか?
高橋:辛いではなく、まあ、忙しすぎるし、いったん辞めてもいいかと。
竹下:そんなにあっさりと…。
高橋:その後、1年半ニートを満喫して、貯金がゼロになりそうだな、これはヤバいなと思っていたら、SCEの時に一緒に仕事をしていた方が退職するので「送別会をするから来なよ」と声を掛けられて。行ってみたらSCE時代に一緒に仕事をしていて、フロム・ソフトウェアに転職された方がいて、「何してるの?」と言うから「無職です」と答えたら、「仕事があるから来なよ」といわれて。
当時ドワンゴとフロム・ソフトウェアさんの合弁の子会社がありまして、フロム・ネットワークスという会社なのですが、そちらの社員1号として入社することが決まりました。
竹下:引き寄せられていますね!
高橋:その時に、ドワンゴが開発していたMMORPGのパブリッシングが仕事です。
僕自身としてはMMORPGの運営が初めてだったのでとても勉強になりました。後はプロモーションとかは、SCEの時は強力なプロモーションチームがいたので、そこにおんぶにだっこでしたけど、フロム・ネットワークスではプロモーションまわりの部分を見よう見まねでやらせてもらって、そちらも非常に勉強になりました。
竹下:そちらはどの位在籍したのですか?
高橋:そこは1年くらいです。ただ、次のチャレンジを考え始めた矢先に最初にパートナーシップを組んでいたパブリッシャーでの運営が終わることが決定してしまいました。会社としてはそのままサービス終了の可能性も検討していたのですが、個人的にそれはもったいないなと思って、そのMMORPGはその後にまた別の会社でリブートするのですが、そっちの方の譲渡の目鼻を付けてから辞めました。
竹下:なるど。で、その後創業ですか?
高橋:いや、その後もまだ創業はしないんですけど(笑)、縁があって韓国に行って、オンラインゲームのスタートアップにジョインして、半年強くらいソウルに住んでいろいろトライしたのですが、中々チームが立ち上がらないなというのもあって日本に帰ってきて、これもまあ、たまたま声を掛けられて遊びに行ったキューエンタテインメントで、CEOから「で、いつからキミ来るの?」と言われて、「僕、入社するんですか?」と。(笑)
そこではオンラインゲームをやりたいと話があったので、『ドルアーガの塔 -Recovery of BABYLIM-』というMMORPGですね。GONZOさんがアニメとオンラインゲームを同時展開するという、クロスメディアプロジェクトがあって。それをキューエンタテインメントが開発会社として受託していたので、開発サイドのプロデューサーとして、2年半くらいかかって「ドルアーガの塔」のローンチから最初のメジャーバージョンアップが済むまでやらせてもらい、その後、ようやく創業です。(笑)
竹下:来ましたね、で、それは何年でした?
高橋:2008年ですね。いま13期目です。
あまた株式会社
代表取締役社長 高橋宏典
大学を卒業後、テクモに入社。その後ソニー・コンピュータエンタテインメント(当時)で『どこでもいっしょ』のディレクションを担当し、最年少プロデューサー(当時)に。その後フロム・ネットワークス、韓国でオンラインゲームのスタートアップ企業、キューエンタテイメント等を経たのち、株式会社たゆたうを起業。設立10年の節目に社名をあまた株式会社に変更、現在も代表取締役社長を務める。